令和元年(2019年)中国調査旅行 New

1.旅程

5月10日(金)ANAのNH961便にて羽田(9:05)-北京(12:00)。ホテルに荷物を置いたあと、北京西駅に直行し、今後数日間に必要となる高鉄の切符を受け取る。大変混雑していて1時間以上並ぶ。また、地下鉄に乗るまでも30分くらいかかることもあるので注意が必要である。

5月11日(土)北京西駅からG801便9:15発に乗り、鄭州東駅に11:43に到着。鄭州市博物館で鄭州市周辺の遺址からの出土物を収集。

5月12日(日)朝4時過ぎに起床して、焦作へ。途中で黄河を渡る。高鉄とは違う風景が広がる。焦作駅から焦作博物館へ移動後、焦作博物館では碑林を特別に参観する。焦作博物館は、午前11時~午後2時までは休館中の旧タイプの博物館。注意が必要である。博物館参観後は、古玩城と書展巡り。ある古玩城で、珍しく瓦当の本物(?)を見つけるが、今後の移動のことを考えると購入できず諦める。帰りは運良く高鉄の切符が購入でき、G75 13:30焦作を出、14:06に鄭州東ではなく鄭州駅に戻る。地下鄭州駅の改札すぐ横に出口があり、地下鉄までの移動がスムーズ。

5月13日(月)G651 鄭州東駅10:29-11:05洛陽龍門駅へ。久しぶりに高鉄からバスに乗ったが、ICカードが使えた。洛陽の中国銀行洛陽分行周辺はバス路線が複雑で、更に今は地下鉄の工事をやっているので、バス停がわかりにくい。昼頃にホテルに着くが運良くチェックインできた。バスカードのチャージ店、老城とバス路線を駆使して移動し、古玩城等を下見。六品堂で雀頭筆を購入。

5月14日(火)洛陽2日目。朝から洛陽博物館に出かけ、「融合之路」展を参観。カメラ電池切れ、痛恨のミス。博物館から北上して浜河南路、龍門大道経由で老街周辺を探索。老城の周辺西北部を探査。

5月15日(水)洛陽3日目。朝一番で再度洛陽博物館へ。撮影終了後すぐに老城の南部に移動し、洛陽隋唐大運河博物館を参観。清代の瓦が見事。次に洛陽民族博物館へ。この博物館は3つの博物館で構成されている。特に珍しいのが扁額だけを集めた博物館。扁額とは聞き慣れないが、古い店の看板などを集めた博物館である。中華民国時代あるいはそれよりも以前の旧市街とはこのような店があふれていたのだと思うと感慨もひとしおである。バスで 瀍河橋まで移動し、老街の北東部の河川を探索。回教徒の集落であり、モスクも見える。洛陽東駅の高架を通ったあたりで引き返し、三井洞橋から老城北の中心にある安喜門に移動して、周辺を散策。

5月16日(木)洛陽4日目。早朝から周王城広場周辺を散策。新華書店、華夏文博城、天子駕六古玩城等とても興味深い。老城の中心部に行き、中心部で筆などを購入する。

5月17日(金)ホテルから洛陽龍門駅まで直行の路線がないため、バスを乗り継ぐ。G662 洛陽龍門12:20-新郷東13:24で新郷東駅へ。このルートは高鉄の本数が少なく、切符は取りにくい。駅を出るといきなり30度を楽に超える暑さ。新郷東駅近くに大きなバス停車場があるが、そこまでにはタクシーの人待ちの行列。盛んに声をかけている。正岡君とここに来たときもぼったくりタクシーの対応に苦労していた。道はごくごく単純で、町の東に新郷東駅が、西に新郷駅があり、両者を平原路で結んでいる。バスでホテルまで移動。平原博物館まで歩くが、周囲は変わらず何もない。平原博物館は、新郷駅と新郷東駅の中間にあり、行政のために作られた地区の一区画にある。町に不釣り合いなほどの大きさの博物館で、珍しいのは拓本陳列の部屋があること。石鼓文から始まり唐代までの主たる石刻資料はほぼ網羅されている。

5月18日(土)早朝、平原路西に進み、新郷駅近くまで行く。こちらの方は繁華街があり、人があふれている。新郷古玩城、新華書店、衛河公園周辺の文房具店などに行くがめぼしいものはなし。途中に関帝廟があり、その周辺に古玩を売る店があるというので向かうと、ここが結構面白い。拓本を1枚入手。再び、平原博物館へ。ちなみに東京国立博物館で開催される三国志展の関羽像はこの博物館の収蔵である。新郷市博物館ではなく、平原博物館が正式名称。目玉の収蔵品に北魏の巨大な石像があるが、これで大きなヒントを得た。他に子龍鼎という大きな青銅器があるが、これは戦前には日本にあった様子。

5月19日(日)G534 新郷東11:10-北京西14:19。もっと早い高鉄に乗りたかったが切符が確保できず。ホテル到着後、瑠璃廠に直行し、1時間ほど中国書店で書籍の調査。

5月20日(月)早朝、地鉄を乗り継ぎ、東直門へ、東直門から北京空港、NH964 9:05-12:00で羽田、羽田からはいつもの午後3時の便で松山へ。長い旅も終了した。

 

2.博物館等の調査について

(1)鄭州博物館

鄭州博物館は何度も来ているが、いつ来てもカンカン照り。地下鉄1号線の緑城広場下車し、公園の周囲を歩いて行く。途中の嵩山南路では、常に占いをしている大集団、歩道一杯のバイクに遭うので、目印になる。外観は青銅器をモチーフにしている。

かつては地下1階も展示室があったが、今は未解放。1階と2階に展示室がある。いくつかの展示コーナーがあるが、地域性を問えばやはり青銅器。殷周の資料が多くある。この展示はまとまりがないが、青銅器の種類を知るにはちょうどよい。

陶器の出土品も多く見られる。漢代の俑であるが、ここから服装、髪型などを読み取って、当時の文化を知ることができるとされている。

驚いたことに甲骨片もも展示している。甲骨には鑽と鑿があるが文字はよく見えない。

 今回目的の古代石刻芸術陳列入り口。

北魏の石仏。鄭州出土。無紀年。他にも北斉の造像記等多くの石刻資料が見られた。

 瘞鶴銘并序。なぜここにこの刻石があるのかはわからないが、1986年に市内から25石を収集し、23石が残存している。

 

(2)焦作市博物館

 鄭州から普通電車で1時間のところに焦作市博物館がある。焦作には始めて行ったが、コンパクトにまとまったわかりやすい町である。博物館は町の北部、彫塑公園の南にあり、入り口題字は郭沫若の書である。

入館料無料ではあるが、旧式の開館形式で、午前中は9時から11時までの2時間しか開いていない。午後は2時から。建物は小さいが奥行きは広く、1階から3階までの展示がある。

入り口にある展示室の概略図。暗くてわかりにくいが、三角形方の展示室である。

この博物館の売りは「山之陽」の展示コーナー。多くの文物が展示されている。

1986年に出土した陶缶である。山陽と書かれるが、漢代の文物が多いのは、後漢朝の最後の皇帝を退位した献帝(劉協)が山陽公に封じられたからである。

博物館の収蔵品で多いのが漢代の陶製の文物である。これほどの多くの文物がある博物館は見たことがない。また、多くの文物には色彩が残されている。

 山陽故城から出土した文物。美しい朱がはっきりと残されている。

 小さな規模であるが、漢代の墓葬が移築されている。版築のレンガを積み重ねているが、この形式の墓は中国国内に多く見られる。ドーム型に積み上げているが、よく崩れないものだと関心する。

1984年に白荘から出土した「五層彩絵陶倉楼」。朱と黄色の色彩が鮮やかに残されている。

河南省ではおなじみの陶倉の文字。「大麦」とはっきり書かれている。ここには紹介しきれないが、多くの資料が所狭しと展示されている。

この博物館には碑林があることを博物館の公式Hpで見ていた。しかし見当たらないので、博物館横の臨時の展示室で聞いてみた。トランシーバーで何から言っていたが「博物館の1階に行け」と言っているらしい。そこで、主任の男性にパスポートを見せ、先ほど参観した展示室を通って外に出るとそこに碑林があった。正式には「山陽石刻芸術展」という。

中庭の緑が鮮やかである。唐宋の石刻資料が中心であるが、数量的には30から50点の資料が回廊に置かれている。

北魏の造像碑の台座。大型の石像があったと思われるが無残な姿である。碑石には像と短文の題記文字があるが、はっきりと読み取ることは難しい。

北斉の千仏造像碑の裏面。山陽区恩村郷檣南村で収集したとある。730程の仏像が刻まれているそうだが、北斉の都から遠くの地にこのような精緻な文物が残されていることに驚く。

造像碑の表側。文革の時に壊されたのであろうか、石像の顔はすべて壊されている。

 北斉の道明墓誌 天保2年(532年)の作例である。採拓された様子がほとんどなく、石灰岩であることがよく分かった。帰国後、データベースを確認すると『書法叢刊』に特集があり、その他『新中国出土墓誌河南巻』『晋秦予信州墓誌蒐集佚続編(1)』に採録があった。拓影と実物は全く印象が異なり、実物を見ることの重要性を体験した。

最後にこの看板があることが分かった。この裏は駐車場になっており、通常はこちらから入るのであろう。

博物館での調査終了後、古玩城と書店を巡り、駅に戻るとしたが、バスが来ず徒歩で駅に向かった。途中、枯れた河川を発見して撮影した。焦作は、洛陽から白溝につながる小河川の通過する地帯であり、河川の流れも注目していた。残念ながら、水量はお世辞にも多いとは言えないが、このような小河川を利用して物資を運搬していたのであろう。

焦作駅に戻ってきた。片道1時間ほどだが、途中で麺を食べ余計に汗をかく。体感気温35度、既に真夏である。写真は駅前北口広場。花は造花でない。

 焦作駅は在来線の駅だが、帰りはなぜかG(高鉄)の切符がとれた。途中で黄河を渡るおで夢中でシャッターを切るが、橋の構造柱に邪魔されてうまく写らない。穏やかな流れで、物資運搬には使用できるのだろうと納得した。

 

(3)洛陽博物館

 半年ぶりに洛陽に来た。まだ地下鉄工事中で、町中は交通渋滞+路線バスのバス停もルートも変わっていてどこに行くのか分からず。今回はガーミンのGPSを持参したが、おかげで自分がどこにいるの概ね把握できて助かった。写真は、今回で4度目の訪問の洛陽博物館新館。旧市街からは洛河を渡った南側にある。いつもは77号線で牡丹大橋を渡り文博路の博物館前で降りる。

 今回は博物館に2回来た。北魏の展覧会をしていたが、カメラの痛恨の電池切れ。2日目は時間に余裕があったので、今まで来たことがない南東のチケット交換場で入場券をもらった。こちらの方がアングルがいいか、珍しく青空。

博物館には、毎回小学生・中学生の修学旅行(?)にであう。撮影時にこれに出会うと大変だが、今回は博物館入り口でも足止めをさせられた。写真撮影が終わるまでは出入りができない。

今回の洛陽訪問の目玉は「融合之路」と銘打ったこの展覧会である。常設展ではないので、1階入り口すぐ横の展覧場にあり、あまり人はいない。この展覧会は山西省大同の大同市博物館と龍門研究所の所蔵品を借りた展覧会で、目新しい資料が多くあった。

「大代万歳の」瓦当。漢代の瓦当とは作りが異なる。

「永昌長寿」の瓦当。上のものと同じで、中央の乳が大きく、三角形の隙間にも小さな突起がある。

 陶器の馬。1965年に司馬金龍墓から出土した。司馬金龍墓は出土品が多く、墓誌も発見されている。

ガラス・水晶の小瓶と鉢。右の鉢は2002年に北魏墓から出土した。

北魏の人面像。迫力満点。

北魏の金盤。わかりにくいが、人物像が彫金されている。

2000年に大同市雁北師院で発掘された北魏墓の彩色陶馬。中国古代の馬はどれをみてもうまく立体化されている。これは人が乗る馬具がつけられている珍しい作例である。馬の顔に朱で書かれている部分を見ると、現代と変わらない様子である。

左の銅器は2013年に大同市東信広場の北魏墓で発掘された。龍首銅鐎斗と記載されている。拡大写真をみても「龍」には見えないが、山西省に青銅器鋳造の技術が伝承されていることははっきりしている。

この陶俑のキャプションには「彩絵陶牛車」と書かれている。牛車であるが牽引しているのはどうも葬儀の棺桶のようである。下の写真を見てほしい。

上の三枚の写真は2011年に大同市の北魏墓からの出土品である。キャプションには「出行俑陣」と書かれている。『儀礼』等の文献には葬儀の形が書かれているが、北魏の資料として葬列の様子が書かれているのは珍しい。先ほどと同じ物が中央で牛に曳かれている。今までは上の牛車のように個別の資料としてしか見てこなかったが、それぞれのつながりを考えると、その情景が見えてくる。

孝文帝の洛陽遷都後の資料。遷都後に旧姓を捨て、漢族に近い姓を名乗らせたが、このような表を見ると一目瞭然である。墓誌資料の読解には、有効な資料である。

 ここからは、洛陽博物館の資料展示。平常展では見ることができない資料が展示されている。北魏洛陽のシンボルであった永寧寺の資料である。このレプリカのような建物が、北魏洛陽城の中央にそびえ立っていた。

 「泥塑仏面像」。1979年に発掘されている。このレプリカが売店で販売されていた。

 北魏の菩薩頭像。若干オリエンタルな雰囲気がある。龍門研究院所蔵。

 龍門博物院に所蔵される飛天の石像。龍門からは多くの仏像が他に持ち出されている。

 龍門石窟院所蔵の座仏。北魏のもので、顔が細身である。なぜ首が傾いている。

これも龍門石窟院所蔵の獅子像頭部。

洛陽博物館所蔵の三尊菩薩像。北魏の作例であるが、ほぼ完璧に彫刻が残っている。

 展示場ほぼ最後に置かれている「青釉武士俑」。北朝のもので洛陽博物館の収蔵品だそうだが、頭の赤色や顔の様子を見てもお土産品のような…。

 

(4)隋唐洛陽大運河博物館

 平成30年11月に老街南側の水路調査をしていたが、その南側の九都東路に迷い込み、この博物館を偶然に見かけていた。ちょうど、墓誌と運河の関係を探っていたので、今回じっくりと参観した。

 この看板では洛陽山陕会館は2006年からのもののように見えるが、歴史は古く、中国清代の康熙・雍正年間に晋陕の承認の商業、集会、社交の場として作られたものである。

 入り口左の受付(上の写真では電気自転車が置いている場所、わかりにくい)でパスポートを見せると、入り口の柵を解除してくれる。

 内部は、拝殿などがあるがとりわけ珍しい物ではないが、一番奥の山門は迫力がある。清の雍正年間の山門がそのまま残されている。清代からの植民地侵略、国共内戦等をよくくぐり抜けてきたものだと関心する。

 最も奥の壁にこの焼き物がある。「照壁」である。写真からは伝わらないかもしれないが圧倒的な迫力がある。なんと言っても空間が狭い。北京の紫禁城や北海公園の九龍壁であるが、そこには広い空間がある。三点の作品しかないが、これで十分に当時の技術を味わえる。

 何枚かの接写写真を載せてみた、一部壊れているものがあるが、色彩は明快に残されている。

 屋根の部分についても「元祖ディズニーランド」と言うべき面白い意匠をしている。それにしても青空がほしい。

 照壁の横には小門がある。この門も清代のものであろうが、屋根の瓦も立派だが、木彫も見事である。日本の神社建築に共通する特徴がある。

(5)洛陽民俗博物館

 洛陽老街の南東角にある。通常、老街にアクセスするのは、西の中央(西関の方から)なので、なじみが少ない。この博物館は公園の中にあり、周囲からは少しわかりにくい。道路側からはこの写真の赤い柱があるのでこれを目指すと到着できる。

 民俗博物館は3つの博物館の集合体である。扁額博物館はその一つであるが、その影響か、扁額がやたらに多い。

 博物館の移動には回廊のようなところを歩いて行くが、所々に碑石が積み上げられている。

 扁額博物館の内部。よく集めたものだというくらい扁額が展示されている。2階建ての建物だけが、複数の部屋に色とりどりの扁額がある。共通項としては、すべて手書きのものをベースとしていて、日本で見かけるような活字的なものは一つもなく、感情高ぶる空間である。清代のものも多いが、多くが民国時代以降のものである。老街でも扁額を作っている店をよく目にするが、これは中国の長い伝統的な文化であったことを得心した。民国時代の老街はどのようなところだったのだろう。

清代の石碑が分解されて放置されている。時々見かけるが、ここのは数量が多い。

 5月は牡丹の時期は過ぎているが、新緑が美しい。

 洛陽契約文書博物館の入り口。右奥の方にある。契約文書とは文書館のようなものかと思っていたが、少し経路の違う資料が展示されている。

 お茶を飲む場所か。ガラスに囲まれていて少し奇妙だ。

 展示品は多いが、印象的なのは、人民政府が発行する結婚証明書である。

 ここの展示からは、洛陽民俗博物館の展示資料である。午前中の閉館前に入ったが、農具等以外にこれらがあった。キャプションはメモしなかったが、鮮やかな衣装は今でも目に焼きついている。

中央の広場では、撮影が行われていた。みんな時間で追い出されているが、撮影した写真は何に使うのか。

(6)洛陽老街河川

 博物館を出て、再度老城周囲の水路の確認を始める。この水路は「瀍水」と呼ばれる。前回、老城東側の南半分を探査した。今回北半分を探査する。写真は瀍河橋。老集から東に行った場所で、老街東側の中央にある。

水路の幅は約50メートルほどか。河川と周囲の建物にはかなりの段差がある。

時々このような関があるが、河の流れは極めてゆっくりしている。老城の東側にはしばしば見られる。

ほぼ流れはなく、釣り竿たれている人もしばしば。

老城東北近くの民俗橋。このあたりで、二本の河が合流する。

 この河の横は散策路が整えられている。河の周囲には「瀍」の文字があるゴミ箱がある。

 該当にも「瀍」の篆書が。篆書はデザインに使える。

 隴海線まで来たここまで来ると、河川の整備はできていない。

線路を越えて北に進んだあたりに、モスクを発見した。このあたりはイスラム街。町は整然としており、整備は進んでいるように見える。

 上流まで行って、元の道を戻り三井洞橋まで戻ってきた。まだ、老城の東北。

バスにのり、老城北中央まで戻ってきた。橋のレンガの色が違う、よく見るとかなり古いものを使っている。この上には、安喜門がある。

 安喜門は老城に入る北の関門だが、相当に大きい。この門は西にも残っており、それが超市に利用されている。

(7)平原博物館

 洛陽から新郷にやってきた。新郷は以前も今回もめちゃくちゃ暑い。平原博物館は、新郷の新し行政区に作られているが、博物館の敷地がとても広い。写真は、裏のほうから撮影したが、入り口までここから5分は歩いた。

やっとたどりついた正面入り口。迫力がある構えをしている。

 この青銅器は、「子龍鼎」と呼ばれ、日本と関係がある。あの山中商会が買い取り、日本で売却したあと、香港人に売られ、それを大陸人が買い戻したようである。ただ、現物は、中国国家博物館にあるはずなので、ここに無防備に置かれているのはレプリカだろう。

 北魏の石像である。写真ではわからないが、大型の仏像で、相当に手間をかけて作成されている。その台座に銘文が刻まれているが、内容的には、この仏像を作った者の氏名だが、これが隷書的な用筆法で書かれている。興味深い。

 この博物館には、拓本展示室がある。写真は、今年の学会発表で使おうと思っている「西門豹祠碑」。碑が摩滅しているが、これはよく見える。

高貞碑の未断本拓本。篆額もよく見える。

 三国蜀の谷朗碑。なぜか泣いている拓本が多いが、これについては完璧な拓本である。

 鄭羲上碑の拓本。山東省莱州在住で鄭道昭研究家の邱学才先生に、「上碑は摩滅しているように見えるが丁寧に拓本を採ると、下碑に劣らない」とうかがったことがある。文字がよく見える佳拓である。

この写真のような部屋がいくつもあり、全套本が数十点展示されている。拓本がこれほど多いのは天津博物館とこの博物館だけだ。

 唯一の線装本。装丁はかなり痛んでいるが、質的にはかなりよい。

以前、浦野先生にうかがったこともある馬具名称の図。複雑過ぎてよく分からない。

新郷周辺からもこのような立派な青銅器が出土している。